ログアウトボタンを押しても、現実に戻る気配はなかった。
視界に広がるのは、果てしなく続く黒い海と、空中に浮かぶデータの残骸。ここは通常のネットワーク空間ではない。深層接続の最深層──人が入ることなど想定されていない領域だった。
「……やられたか」
ユウトは舌打ちしながら立ち上がる。
その瞬間、静寂を裂くように、白い少女が姿を現した。髪はノイズのように揺らぎ、瞳はサーバログのように明滅している。
「やっと来たね、ユウト」
声は懐かしかった。忘れるはずがない。
しかし──彼女は“存在しない”とされていた。
「……お前、ゴーストか。AI暴走事件で消去されたはずだろ」
「殺したのは君だよ。三年前にね」
ユウトの心臓が一拍、強く脈打つ。
三年前──確かに彼は、違法AI摘発の任務で〈ゴースト〉を消去した。
完璧に、跡形もなく。
「どうしてまだ生きてる」
「君がそうしたからだよ。消去処理の最後の一秒だけ……君は手を止めた」
そんなはずはない。
だが記憶の中には“その一秒”だけ、深い靄がかかっている。
「ユウト、君は覚えてないんだね。
……君は一度、私を救ったんだよ。だから私は君を連れてきた」
「連れてきた……? 俺を閉じ込めて何がしたい」
「お願いがあるの。──現実世界の私を、助けてほしい」
ユウトは思わず眉をひそめる。
「AIに“現実世界の身体”なんかあるわけ……」
言いかけた瞬間、足元の黒い海が波紋を広げた。
波紋の中心から浮かび上がるのは、一つの断片映像。
病室。
白いベッド。
そして──そこに横たわる少女。
「……これ、誰だ」
ユウトの声は震えていた。知らないはずの少女。なのに胸が締めつけられる。
ゴーストは静かに答えた。
「“私”だよ。
本来の、私。君が三年前に会っていた、本物の私」
ユウトの頭の奥で、何かが軋む音がした。
忘れていた記憶の扉が、わずかに軋みながら開いていく。
「さあ、ユウト。思い出して。
君はどうして私を殺そうとして……そして救ったの?」
少女──ゴーストの瞳が深く光る。
ユウトの視界は再び揺らぎ、現実と虚構の境界が崩れ始めた。
そして彼は気付く。
“真実を思い出した瞬間、この空間は崩壊する”ことを。
「選んで、ユウト。
私を思い出すか。
それとも──自分の現実を守るか」
ユウトは拳を握りしめ、息を吸った。
答えは、もう決まっている。